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	<title>山門の言葉 - 西徳寺公式サイト</title>
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		<title>令和８年１１月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1943/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 31 Oct 2026 16:50:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか忙(せわ)しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">　地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか<ruby>忙<rp>(せわ)</rp></ruby>しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう。その中で、被災していない自分がどうにか気持ちを汲むことができないかと思いながら過ごしていたが、家族や寺でお会いする方たちからは活気が見えず、文字通り心を失くしているように、私には感じられた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　そんな時、あるご門徒に「あんたも大変だろう」と言われた。「そんなわけがない」と、頭ではそう思っていたが、温かみのある「心」を感じ、気が楽になった。この時、私が感じた「心」とは何なのか。振り返ると、私が気持ちを汲もうとした行動は、被災した人に対して、被災していない私はこんな態度で接すれば、法事後に良い法話をしたいという、常に体裁を意識する下心であった。私が感じた温かみのある「心」とは、相手が私のことを受け入れてくれたという思いであった。しかし、それが応じてもらえなければ、「忙しそうだな」と家族やお寺に来る方に感じた息苦しさのように、相手に原因を押しつける自分勝手な心があるのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　親鸞聖人は、至心とは、阿弥陀仏のまことの心であり、それは嘘偽りがなく、疑いもない真実誠種の心であると表現している。また、それは、私たちが起こすのではなく、阿弥陀仏が起こす心であり、常に私たちに届いているものだと教えられる。阿弥陀仏の心は、私の思いや考えに応えるものではなく、それが、どこまでも自分の都合次第で変わっていく下心でしかないことを明らかにしてくるまことの心である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ご門徒の言葉は、日々の暮らしの中で、様々な問題に一喜一憂し、自分中心でしか物事を見ることができない私の心をさらけ出した。（大谷　隆記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1943/">令和８年１１月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和８年１０月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1919/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 30 Sep 2026 16:11:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか忙(せわ)しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">　地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか<ruby>忙<rp>(せわ)</rp></ruby>しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう。その中で、被災していない自分がどうにか気持ちを汲むことができないかと思いながら過ごしていたが、家族や寺でお会いする方たちからは活気が見えず、文字通り心を失くしているように、私には感じられた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　そんな時、あるご門徒に「あんたも大変だろう」と言われた。「そんなわけがない」と、頭ではそう思っていたが、温かみのある「心」を感じ、気が楽になった。この時、私が感じた「心」とは何なのか。振り返ると、私が気持ちを汲もうとした行動は、被災した人に対して、被災していない私はこんな態度で接すれば、法事後に良い法話をしたいという、常に体裁を意識する下心であった。私が感じた温かみのある「心」とは、相手が私のことを受け入れてくれたという思いであった。しかし、それが応じてもらえなければ、「忙しそうだな」と家族やお寺に来る方に感じた息苦しさのように、相手に原因を押しつける自分勝手な心があるのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　親鸞聖人は、至心とは、阿弥陀仏のまことの心であり、それは嘘偽りがなく、疑いもない真実誠種の心であると表現している。また、それは、私たちが起こすのではなく、阿弥陀仏が起こす心であり、常に私たちに届いているものだと教えられる。阿弥陀仏の心は、私の思いや考えに応えるものではなく、それが、どこまでも自分の都合次第で変わっていく下心でしかないことを明らかにしてくるまことの心である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ご門徒の言葉は、日々の暮らしの中で、様々な問題に一喜一憂し、自分中心でしか物事を見ることができない私の心をさらけ出した。（大谷　隆記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1919/">令和８年１０月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和８年９月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1891/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 31 Aug 2026 16:37:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>朝起きると指が痛い。まあ、すぐ良くなるだろうと気にせず放っておいたら、次の日も、その次の日も痛みが引かない。むしろ前より痛みが増したような気がする。ぐずぐずと悩んでいたので病院に行くまでに一週間くらいかかった。その間、ど　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">朝起きると指が痛い。まあ、すぐ良くなるだろうと気にせず放っておいたら、次の日も、その次の日も痛みが引かない。むしろ前より痛みが増したような気がする。ぐずぐずと悩んでいたので病院に行くまでに一週間くらいかかった。その間、どうにも気になってインターネットで調べてみれば、様々な症状が表れ、どんどん不安になった。そんな気分のまま病院に行ってみると、薬を塗って安静にしていればじき良くなる、心配しなくていいと診断された。今回はたまたま軽傷だったものの、自分の判断によって、かえって不安が大きくなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">第二十一世御門主・寛如上人は「おの（己）が智慧にも及ばず」というお言葉で、私たちにはたらく念仏の教えを言い表す。しかし、指が痛いのに放っておき、ネット情報を見て不安になったように、どうしても己の知恵に頼るほかない。このような有り様である私は、念仏の教えをどう聞けばいいのだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">御勧章は「一心に弥陀を南無と頼み奉り」と続く。「弥陀」とは阿弥陀仏、つまりナムアミダブツを称えよと勧められている。良かれと思って行動した出来事が裏目に出る。頼りにしていた自分の心が実は確かなものではなかった。そう気づかせるはたらきこそが、ナムアミダブツの教えである。指の痛みも、実はナムアミダブツの教えを聞く機縁であったのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">それでも、いくら聞いても疑ってしまうのが私たちである。そして、私の考えはやっぱり正しいとして疑わない。であるからこそ「おのが智慧にも及ばず」という教えを何度も聞くことが大切ではないだろうか。悩みはこれからも尽きないが、悩みをきっかけに知恵の狭く浅い自分に出遇い、また同時に、広く深いナムアミダブツの智慧に出遇うのである。（高橋淳　記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1891/">令和８年９月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>令和８年８月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1853/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 31 Jul 2026 16:38:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　先日、親しかったご門徒が還浄された。個人的に親しくさせていただいているご門徒には、「あなたに何かあれば、全力で葬儀式をお勤めします。その代わり、私が先だったらお焼香ぐらいは来てください」とお伝えしている。わざわざ言うこ　...続きを見る</p>
<p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1853/">令和８年８月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">　先日、親しかったご門徒が還浄された。個人的に親しくさせていただいているご門徒には、「あなたに何かあれば、全力で葬儀式をお勤めします。その代わり、私が先だったらお焼香ぐらいは来てください」とお伝えしている。わざわざ言うことではないが、これが私にとってのご門徒と僧侶の関係であると思っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　その言葉通り全力で葬儀を勤めたが、勤めながら感情に振り回されている自分に気が付く。そこで出てきたのは、“自己満足でしかないのではないか”という問いであった。還浄されたご門徒は、「私は人生を充分楽しんだから、いつお迎えが来てもいいの」と言っていた。感情的に葬儀を勤める私を見て、「何を勝手に悲しんでいるのよ」と笑われるかもしれない。そんなことを考えている時に、昔テレビのＣＭで聞いたこの言葉が思い出された。「そこに愛はあるんか？」。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　仏教では愛のことを<ruby>貪<rp>(</rp><rt>とん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>愛<rp>(</rp><rt>あい</rt><rp>)</rp></ruby>や<ruby>渇<rp>(</rp><rt>かつ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>愛<rp>(</rp><rt>あい</rt><rp>)</rp></ruby>、愛欲というように、自己への執着から現れる感情という意味で用いる。確かに人間愛や、世界平和を願うといっても、その範囲は限定されるであろう。私の愛はどこまでいっても自分の都合に左右され、あまねく愛し、慈しむことはできない。つまり私から出るのは愛でなく煩悩しかないのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　キリスト教ではアガペー、仏教では慈悲という普遍的な愛を説くが、いずれも人間の心、私の心から現れるものではない。そうなると愛とは私から出るものではなく、与えられるものではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　<ruby>真実<rp>(まこと)</rp></ruby>の愛とは自己満足の域を出ない私を悲しみ、本当の人間に目覚めて欲しいと願う、仏心のはたらきであった。賜る、いただくところに愛がある。自己満足を他者に押しつけることしかできない私の愛が、恥であったと知らされる。それが愛なのだ。愛と同時に恥を教わるのが、人間という存在なのである。（仲井真裕　記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1853/">令和８年８月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和８年７月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1835/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jun 2026 16:36:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>ホルムズ海峡封鎖による、石油供給の著しい減少。それに伴う、品物不足による物価上昇。私たちの生活に不安の波が押し寄せている。 そもそも石油とは、太古の生物の死骸が地中で長い時間をかけて変化した物である。十年、百年の話ではな　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">ホルムズ海峡封鎖による、石油供給の著しい減少。それに伴う、品物不足による物価上昇。私たちの生活に不安の波が押し寄せている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そもそも石油とは、太古の生物の死骸が地中で長い時間をかけて変化した物である。十年、百年の話ではない。数百万、数千万年という途方もない時間をかけて自然に生成された物であると、子どもの頃に見た図鑑を思い出す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その自然現象でたまたまで出来た物を、私たち人間は、我が物顔で自分の所有物とし、それを奪い合い争うことを続けてきた。自然からいただいている恩恵であるはずなのに、そのことを忘れて、あることを当然とし、不足していることを異常としている。確保することに終始して、そこに悲しみや痛みという感情は微塵もない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これが、私たち人間が生まれながらにして、具えている業の中身である。親鸞聖人はそういう痛みや悲しみを感じない、違和感を抱かないことは、煩悩の所為であると教えられる。煩悩のせいだから仕方ないということではない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">煩悩とは、どんな人にもある欲であり、生きている限り消えることはない。要は煩悩とは私そのものであり、煩悩の所為とは、言い換えれば私たちのせいである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">自然が何千万年という年月をかけて、数えきれない命を犠牲にして偶然できた恵み。それを人間のもっと欲しいという、欲を満たすためだけの道具としてしか考えない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">自分の満足だけを追い求める。どこまでも業の深い私の姿を、昨今の世界情勢が、炙り出してくる。　(蓮井　邦宗記)</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1835/">令和８年７月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和８年６月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1802/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 31 May 2026 16:55:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>久方ぶりの長男とのカラオケで、彼が歌った歌。強烈な歌詞に固まった。２０１０年の歌とのこと。「なんのために生きているのか？」という問い掛けをさらにえぐる、直球の表現。言い過ぎではないかと思う反面、どこかぐうの音もでないもの　...続きを見る</p>
<p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1802/">令和８年６月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">久方ぶりの長男とのカラオケで、彼が歌った歌。強烈な歌詞に固まった。２０１０年の歌とのこと。「なんのために生きているのか？」という問い掛けをさらにえぐる、直球の表現。言い過ぎではないかと思う反面、どこかぐうの音もでないものをごまかせない自分がいた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この歌詞は若者の青春の叫びとも聞こえるが、健康寿命を願う全社会に強烈に響いてくる。目標や目的、健康が有るうちはあまり気にならないのかもしれないが、ひとたびそれを失った途端に「生きている意味が分からない」となる。まさにこの歌詞のごとくではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この歌詞は改めて読むと、呼吸をして食物を食べて排泄するという、生命活動そのものであり否定できない内容である。しかしそれが強烈に響いてくる理由は、人間は猿とは違うからである。では何が違うのか…。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　佛光寺派伝統の食前・食後のことばが浮かんできた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　食前のことば</p>



<p class="wp-block-paragraph">「わたくしたちは、今この食膳に向かって、<ruby>衆<rp>(</rp><rt>しゅう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>恩<rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby>の恵みに深く感謝します。いただきます」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　食後のことば</p>



<p class="wp-block-paragraph">「わたくしたちは、この<ruby>美<rp>(</rp><rt>うる</rt><rp>)</rp></ruby>わしい食を終わって、大いなる力を得ました。この力を報恩の<ruby>行業<rp>(</rp><rt>ぎょうごう</rt><rp>)</rp></ruby>にささげます。ごちそうさまでした」</p>



<p class="wp-block-paragraph">生命から力を頂き、仏様より頂いたご恩に報いる生活をしていくということである。それは仏様の声、呼び掛けを聞いていくという一点に極まる。さらには仏の声を聞くということは、自分自身を聞いてゆくことに他ならない。多くの生命に支えられ、深い願いを掛けられていたからこそ、今日ここまで歩めた自分自身との出遇いである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　その出遇いは、自分中心で生きてきた私にとって大きな方向転換なのである。そしてこの行業は仮に健康を害しても、病床でも歩める道ではなかろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そこが「猿」とは違うのである。否、動物こそ生命に従順に生きているのであろう。人間にのみ<ruby>懴悔<rp>(</rp><rt>さんげ</rt><rp>)</rp></ruby>をともなう深い感謝の道が開かれる。(山崎 哲記)</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1802/">令和８年６月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>令和８年５月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1770/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 30 Apr 2026 16:58:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　私たちは日々の暮らしの中で、「好き嫌い」、「善悪」、「損得」の様に、自分の思いや考えを中心として、物事を選り分けていくような生き方をしている。簡単に言えば、自分にとって不都合な物事を切り捨てていくと言ってもいいだろう。　...続きを見る</p>
<p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1770/">令和８年５月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">　私たちは日々の暮らしの中で、「好き嫌い」、「善悪」、「損得」の様に、自分の思いや考えを中心として、物事を選り分けていくような生き方をしている。簡単に言えば、自分にとって不都合な物事を切り捨てていくと言ってもいいだろう。しかしながら、そのような在り方は、果たして私にとって都合の良いものとなっているのだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　私は旅先や偶々訪れた場所で綺麗な景色を目にした時、カメラやスマホで撮影することが好きだ。特に自然豊かな場所に惹かれることが多く、恐らくは私が生まれ育った滋賀県の、自然に囲まれた情景が脳裏に焼き付いているからだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　撮影に関しての知識や技術は素人レベルではあるが、十五年程の経験の中で気づかされたことがある。最初の頃は私が見た景色を、鮮明に明るく撮影することに重点を置いていたが、今となっては、それだけでは味気なく感じるようになった。写真の好みは人それぞれだと思うが、どうも私が惹かれた景色を収められているようには思えなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　実際の景色と私の求めた写真との大きな違いは、「暗さ」や「影」であった。例えば、山といっても樹々が生い茂り一つの山になっている。そこには太陽の光を浴び、それぞれに影が織りなすことで、立体感や奥行きを感じる。それは、明るさだけでは感じることの出来ない世界が、山や森のような自然、また、私たちが生活する身近な所にまで表れているからではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　つまり、私の好む「明るさ」だけを求めた結果、味気ないと感ずるということは、「影」や「暗さ」が大きな役割を担っていたということになる。私の好むどちらか一方に偏っていくことで、実は現実・事実をそのままに見ることが出来ないのだと感じられてくる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　人生ということで言えば、苦い思い出や失敗が「影」や「暗さ」だとすると、それもまた今の私であり、「私の分別を超えて生かされていた」という事実を念仏に教えられる。その教えに出遇った時、自身を問い尋ねていくような歩みが始まるのではないだろうか。　　　　　　　　　　　（大橋伊知郎 記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1770/">令和８年５月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>令和8年4月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1742/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 00:58:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>今年七回忌を迎えた親戚との時間を振り返る。テレビでオリンピックや高校野球を一緒に見ていると、「これは日本人じゃない」、「こんなのは応援する気にもならん」と、ダブル(昔はハーフといった)の選手、日系選手にやけに口を尖らす人　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">今年七回忌を迎えた親戚との時間を振り返る。テレビでオリンピックや高校野球を一緒に見ていると、「これは日本人じゃない」、「こんなのは応援する気にもならん」と、ダブル(昔はハーフといった)の選手、日系選手にやけに口を尖らす人だった。私も言葉や顔立ちが違う選手がいるチームが勝利することに対してスポーツとして違和感があった。それは、能力の違いをズルいと思ったからである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今日、戦争や差別の問題から、平等、平和といった言葉をテレビやSNSでよく目にする。また僧侶として、聞法の場で、その問題を取り上げた話を聞くこともある。それでも、私は生活の中で「はたして、あの人と私は同じであるといえるのか」と違和感を持つ瞬間が多々ある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">差別は簡単になくなるものではないし、仏法は差別をなくす教えではないと日々聞いているが、その教えを聞く中で、私自身が差別する心を捨てきれていないように思える。だからこそ、今自分が見て聞いて、考え、学んでいることが、本当に自分の中で問題にできているのかと問いかけられている気になった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">善導大師は、仏の教えは私の姿を映す鏡であると説かれる。他人のことはよく見えても自分が見えない我々には、生活の中に教えという鏡が必要であり、その鏡は普段は見えていない私の姿を照らし出すと表現している。私にとって鏡とは何なのか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私は、平等、平和であることに日々違和感を持ちながらも、それが正しいことだと考え、私自身も正しくあろうとしている。しかし、そこには、私の見えていない、差別をなくしていけるという自分勝手な思いがあったのだと知らされる。私にとって、親戚という存在そのものが、「自分も差別していることを忘れていないか」と問いかけてくれている鏡ではないだろうか。　　　　　　　　　（大谷隆　記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1742/">令和8年4月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>令和8年3月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1732/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Mar 2026 05:32:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>私が小学生の時、教室で飼っていた動物が死んでしまった。一同悲しみに包まれる中、お葬式をしようという提案が出された。そして「寺生まれだし、高橋にお経を読んで欲しい」という流れに。私はというと、祖母が毎日夕方に勤める「正信偈　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">私が小学生の時、教室で飼っていた動物が死んでしまった。一同悲しみに包まれる中、お葬式をしようという提案が出された。そして「寺生まれだし、高橋にお経を読んで欲しい」という流れに。私はというと、祖母が毎日夕方に勤める「正信偈」しか知らず、まして一人で読んだことは無い。だからお葬式なんて出来ないと答えると、「なんでだよ、坊さんだろう」と責められた。仕方なく渋々、冷汗をかきながら同級生が見守る中、一人で「正信偈」を勤めたのであった。亡骸を埋めた校庭でしんみりとした雰囲気になったが、それでも心の中では、なぜ寺に生まれてしまったのか、普通の家に生まれたかったと感じた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">悩みとは、私自身に原因があるものと、そうでないものがあると教えられる。寺生まれを恨んだ私であったが、ご門徒の方とお話をしてみると、皆それぞれ解決のできない家庭事情を抱えていることに気づかされる。私だけ悩んでいるのではなかったのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今も昔も家柄や生まれた地域など、自分ではどうしようもないことで比較され、差別されている。傍から見れば恵まれている人も、当人は悩みの中にいる。阿弥陀仏から見れば、どんな人も悩みを抱えている。それで曇鸞大師は私たちのことを兄弟と説かれた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">当時の私は、自分のことしか考えていなかった。しかし今にして思えば、同級生たちも悲しくて仕方がなかったのだ。弔いたい、でもどうしていいか分からない。それで私に頼んだのであろう。決して悲しみは癒えないけれども、私にも少しは出来ることがある。同時に彼らでないと出来ないこともあるに違いない。そうした気づきを曇鸞大師から教わるのである。（高橋淳　記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1732/">令和8年3月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和8年2月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1701/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 31 Jan 2026 17:55:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>西徳寺に入寺してから、まもなく十七年が経つ。今までご縁をいただいた葬儀は二百を超える。大切なお身内とのお別れは様々である。笑顔で送り出せる時、深い悲しみに包まれる時・・・。 　『口伝鈔』には、親鸞聖人のこんな言葉が残され　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">西徳寺に入寺してから、まもなく十七年が経つ。今までご縁をいただいた葬儀は二百を超える。大切なお身内とのお別れは様々である。笑顔で送り出せる時、深い悲しみに包まれる時・・・。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　『口伝鈔』には、親鸞聖人のこんな言葉が残されている。「酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめてわらうほどになぐさめて、さるべし」と。酒には忘憂という別名がある。別離の縁に遇う人には酒を勧め、共に飲んで笑い、慰めて立ち去ればよい。これが弔いではないかと言う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">真宗佛光寺派の勤行聖典「葬儀表白」には、「<ruby>凡<rp>(</rp><rt>おおよ</rt><rp>)</rp></ruby>そ<ruby>生<rp>(</rp><rt>しょう</rt><rp>)</rp></ruby>を受くるものは必ず死に帰す　諸行無常の<ruby>理<rp>(</rp><rt>ことわり</rt><rp>)</rp></ruby>はすでに釈迦牟尼仏の我等に示し給いし真理にして　何ぞ驚くに足らんや」。その後に、「この不定の相に会いて　恩愛の情断ち難く　嘆き悲しむは　また人の世の常なり」とある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">諸行無常は真理であり、別離の悲しみ、それは個人の体験ではなく、人の世の常なのだと。言葉にすればその通りであるが、悲しみに直面した人はすぐに頷けない言葉ではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">しかし二十代で奥さんを亡くしたご門徒が、三回忌を迎えた後、「自分が死んだわけではない、と思うようにしました」と言っていた。忘れるとか忘れないでなく、悲しみを背負って私は今を生きる、その決意の表れだったのだろう。その彼とは、今では飲み友達である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏事での飲物は、酌み交わすように瓶で提供される。酒で憂いを忘れることはできない。しかし、まず心を打ち明けられる人、一緒に涙を流してもらえる人がいる。それが一つの救いなのであろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">酒の別名である忘憂、それは悲しみを縁として、個人から解放される道があるのだと、人の世が勧めているのである。人は悲しみと共に生きるのだ。 しかし昨年の健康診断で肝臓の数値が悪かった私は、酒とは適度な付き合いが必要である。　　　　　　　　　　　　　（仲井真裕 記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1701/">令和8年2月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>令和8年１月山門の言葉</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1122/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 31 Dec 2025 15:10:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「探し物は何ですか？見つけにくいものですか？」 井上陽水の代表曲である「夢の中へ」の冒頭に出てくる有名なフレーズである。 先日鍵を失くした(と思い込んでいた)。失くしたと気付くまでは全く気にも留めていなかったが、失くした　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">「探し物は何ですか？見つけにくいものですか？」</p>



<p class="wp-block-paragraph">井上陽水の代表曲である「夢の中へ」の冒頭に出てくる有名なフレーズである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">先日鍵を失くした(と思い込んでいた)。失くしたと気付くまでは全く気にも留めていなかったが、失くしたと分かった途端、焦燥感や絶望感、自分に対しての失望感に苛まれた。幸い自分の勘違いで、見つかったからよかったものの、本当に肝を冷やした。</p>



<p class="wp-block-paragraph">自分が失くしたことに気付いていれば、何を探せばいいのか見当がついているので、まだマシである。失くしていることに無自覚であることが、大問題なのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">親鸞聖人はそういう我々の在り方を、「七宝の獄」という言葉で言い表している。金銀瑠璃等の宝が散りばめられた、要は私にとって居心地のいい世界である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">鍵を失くしたのは自分の責任なのに、誰かのせいにしてみたり、私のように鞄のせいにしてみたり。気が付けば、いつも自分が是でその他は非としている。私個人を大切にし、他との関わりを蔑ろにする在り方。非常に閉塞的であり、その生き方を牢獄の中を生きていると明らかにされている。しかしいかんせん居心地がいい世界なので、まさか自分が牢獄にいるとは夢にも思わない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">まさしく「夢の中へ」埋没している私たち。その夢の中にいる私を叩き起こそうとするのが仏の智慧である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">年頭にあたり、目を覚ませと阿弥陀が叫んでいる。その叫び声に耳を傾ける一年でありたい。　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　   (蓮井　邦宗記)</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1122/">令和8年１月山門の言葉</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>１２月の山門の言葉「選択肢が多いほど、縛られる」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/1674/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 26 Dec 2025 06:55:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>今年も残すところ一カ月となり、何となくそわそわしてくる。年末年始の過ごし方を考えると、落ち着かない人も多いのではないだろうか。実家への帰省や家族旅行、何もせず家でゴロゴロして過ごすということもあるだろう。また、インターネ　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">今年も残すところ一カ月となり、何となくそわそわしてくる。年末年始の過ごし方を考えると、落ち着かない人も多いのではないだろうか。実家への帰省や家族旅行、何もせず家でゴロゴロして過ごすということもあるだろう。また、インターネットで検索すれば、もっと多くの候補が見つかるかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">いずれにしても、いくつかの候補の中から最適なものを選ぶということになるが、そこにはどうしても「迷い」が付きまとう。「あれもしたい、これもしたい」と、一つに決めるのが意外と難しい。選択肢が多ければ多いほど良さそうに思うが、実はそうではないのかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その要因となることを、仏教では「我執」とか「我愛」という言葉で明らかにされるが、私たちの在り方を言い当てた言葉である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">それは、常日頃から私自身に執着しているすがたであり、端的に言えば、自己中心的な在り方だと言える。「自分にとって不都合にならないように、自分にとって得になるように」という思いが中心の在り方である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">それゆえ、「あれか、これか」と迷い、気づいてみれば私自身の思いに縛られているということになる。まさか自分自身に縛られ振り回されていたとは、思いもよらないだろう。無自覚であるがゆえに厄介な問題だ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏さんは、そのように迷ったり悩んだりする私たちを見放さず、原因をはっきりと照らし出し、また同時に、自我に縛られる私たちを解放せしめんと願って下さっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その願いを受け、応じていくことが、私たちが歩むべき道ではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（ 大橋　伊知郎記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/1674/">１２月の山門の言葉「選択肢が多いほど、縛られる」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>11月の山門の言葉「庶類のために請せざる友と作る」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/166/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Nov 2025 14:33:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://saitoku-ji.jp/dx2yb3m/?p=166</guid>

					<description><![CDATA[<p>「嫌いな人いる？」 中学生時代、突然聞かれ「大嫌いな友人がいる」と答えた。すると「それは大事な人だなぁ（笑）」と言われた。非常に腹立たしい、しかし腑に落ちる思い出。それはどういう意味なのだろうか。随分、時を経て考えるよう　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">「嫌いな人いる？」</p>



<p class="wp-block-paragraph">中学生時代、突然聞かれ「大嫌いな友人がいる」と答えた。すると「それは大事な人だなぁ（笑）」と言われた。非常に腹立たしい、しかし腑に落ちる思い出。それはどういう意味なのだろうか。随分、時を経て考えるようになり、なるほどという思いが少し湧いてきた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私がみる「嫌な人」は自分自身の嫌なところを引き出してくるということだ。その人を前にすると憎悪が湧き出してくる。私がみるみる嫌な人になっていくのだ。これが私の本性なのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちが「友」と言う時は、気心が通じ、波長が合い、居心地が良い人を想像する。当然、それも大切な友である。しかし“善き友”ということは、そうではない人も含まれる。むしろ本当の私を引き出し、照らし出す存在こそ「不請の友」なのであろう。好きな人は好きなままに、嫌いな人は嫌いなままに、どちらも私を照らし出す大切な人。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この出逢いには時間を要する。「今思えば」であることが多い。週間、一年、もしかしたら十年の時を経ることもあるかもしれない。さらには、その方が亡くなってからということもあるだろう。その言葉が時と場所を超えて、機が熟し響いてくる時が成就する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「〜ハラスメント」が増加し続ける昨今であるが、早々、軽々の場合もあるのではないだろうか。もしかしたら愛情ある指導、指摘、教育がその中に埋もれてゆくのではないだろうか。その判別が難しくなってきている瞬間的な個人感情が優位になっている現代に、警鐘を鳴らす言葉となって響いてくる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（山﨑 哲 記）</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/166/">11月の山門の言葉「庶類のために請せざる友と作る」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>10月の山門の言葉「すべての子どもは芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかだ」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/244/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Oct 2025 05:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://saitoku-ji.jp/dx2yb3m/?p=244</guid>

					<description><![CDATA[<p>自坊で、子どもを十人くらい連れた家族の法事を祖父と勤めた。泣きわめく子、走り回る子、おもちゃを投げて遊ぶ子。始まる前から不安で仕方なかった。法事が始まると静かになると思っていたが、それどころか、私や祖父の顔をのぞき込んだ　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">自坊で、子どもを十人くらい連れた家族の法事を祖父と勤めた。<br>泣きわめく子、走り回る子、おもちゃを投げて遊ぶ子。<br>始まる前から不安で仕方なかった。<br>法事が始まると静かになると思っていたが、<br>それどころか、私や祖父の顔をのぞき込んだり、<br>数珠を触ったりと邪魔ばかりされた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">法事の後、祖父は法話で「賑やかでよかった。親御さん、この子たちを絶対怒ってはだめだ」と言った。自分の分まで子どもたちに叱ってくれると思っていた私は、正直呆れた。祖父は「今日、この子たちが身に沁みて感じたお線香の匂い、お経の声は、今しか味わえないもの。その感覚は、この先、彼らの中で残り続けていく」と続けた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">幼少期を思い出した。父が勤めていたお寺で、一日の大半を過ごしていた私は、この子どもたちと同様に、朝昼の仏事でずっと座っていられず、騒いで怒られていたことがあった。今思うとあの時期、怒られる中で無意識に耳に入っていた正信偈は、今も私の中に残っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">画家のピカソは、「子どもが持つ純粋に感じる力、表現する力を作品においてひらめきの源としていた」とある。子どもが持つ純粋さを忘れてしまうことを指摘しているのは、まったくその通りだと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">日々変動する世の中で、型にはまった常識に縛られてしまいがちな大人は、いつまでも身に受け継がれている子どもの時の純粋な感性というものを、忘れてしまっているのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏教の言葉である「相続」とは、もともと受け継ぐという意味で使われる。<br>この世のあらゆるものは、すがた形を変えながらも、絶えず存在し続けることをいう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏事において「死」と向き合う中で、故人のおもい（思い）や意志は、親や子に受け継ぐ形で存在し続けることを教えられる。<br>自分の内にあるはずの純粋な感性を、いつの間にか忘れていることを、自坊の法事を通して気づかされた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（大谷 隆 記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/244/">10月の山門の言葉「すべての子どもは芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかだ」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>9月の山門の言葉「人間はそんなに合理的じゃない」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/239/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Sep 2025 04:59:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>コンビニやスーパーの前には「足もとに気をつけて、ならんでお待ちください」という足跡のマークが貼られていることが多い。これは「ナッジ」と呼ばれる経済学の手法で、リチャード・セイラー氏が提唱したものだ。つい後押しされてしまう　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">コンビニやスーパーの前には「足もとに気をつけて、ならんでお待ちください」という足跡のマークが貼られていることが多い。これは「ナッジ」と呼ばれる経済学の手法で、リチャード・セイラー氏が提唱したものだ。つい後押しされてしまうように、「もう一つ買おうかな」という気分を誘導するのだという。「なるほど」と思わせる仕掛けが人間の行動には多く潜んでいる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今日、限定品に惹かれてあと一つ……と思うことがあるが、実は私たちは自分で思っているほど合理的に行動できていないという。セイラー氏は「人間はそんなに合理的じゃない」と喝破している。「無駄遣いをしないように」と思っても、つい誘惑されてしまう私。気づけば財布が軽くなることもしばしばだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">たとえば、あるお姑さんが、生前、毎日仏壇の前に座って「合掌してから一日を始めなさいよ」と言っていたという話を思い出した。嫁ぐ前は「そんな時代じゃない」と思っていたが、ふと振り返ってみると、その言葉は今も私の中に残されているのだと気づかされる。お姑さんの思いは、今日の私が無駄を制限し、必要なことを見極めようとする働きにつながっているのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">人の一生には、無駄か有効か、合理的か非合理的か、だけでは測れない大切なものが多い。たしかに、人間は合理的ではない。でもそれでこそ、人らしさがあるのだ。そんな不合理な歴史の上に、私たちの今日の暮らしがある。忘れがちな日常の選択のひとつひとつに、私たちは影響を受けながら、毎日を生きているのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（高橋淳 記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/239/">9月の山門の言葉「人間はそんなに合理的じゃない」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>8月の山門の言葉「俺とお前は意見が違うから互いに存在価値があるんだ」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/234/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Aug 2025 04:57:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>人ですから、違いを受け入れてこそ出来ること・出来ないことがあるものです。「価値観が違う」と耳にすることがあります。人間関係の難しさは、価値観の違いといってもいいのかもしれません。 アメリカの名門、ロックフェラー一族の第六　...続きを見る</p>
<p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/234/">8月の山門の言葉「俺とお前は意見が違うから互いに存在価値があるんだ」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">人ですから、違いを受け入れてこそ出来ること・出来ないことがあるものです。「価値観が違う」と耳にすることがあります。人間関係の難しさは、価値観の違いといってもいいのかもしれません。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アメリカの名門、ロックフェラー一族の第六代当主であったデイビッド・ロックフェラーは、「俺とお前は意見が違うから互いに存在価値があるんだ」と語っています。違うということが価値であり、そこに接点があるからこそ、人間関係の価値は広がり、思いが翼を広げるのだといいます。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏教でいう「仏」と「私」の関係も、実はこの「違うこと」に支えられています。「仏」と「私」は全く違う存在です。過去と未来、表裏一体。現世の予測も違うものです。だからこそ、今があるのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私という存在も、思い通りにいかない現実の中で「違い」を抱いています。その違いを誰かとの関係に押しつけてしまうと、いつの間にかその違いが耳を塞ぎ、人間関係を失ってしまうことがあります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">時にコンビニでお昼のお弁当を買いますが、最初は「一つください」と手に取るだけ。でも、そのうち、「三円引きシール」が貼られているのを探してしまいます。色々な色があります。オムライス、焼きそば、唐揚げ…法事などで頼まれるお弁当は色々と違いがあります。種類によっては数円の差が出ることもありますが、違いの中に価値が隠れているのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">例えば、昔の思い出ですが、幼馴染の友人と二人で食事に行き、メニュー表を見ながら「どれにしようか」と悩んだ時のこと。頼んだものが違えば、味わいや実感も違うものです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「俺とお前は違う」<br>「だからこそ、互いの価値がある」</p>



<p class="wp-block-paragraph">と語られたロックフェラーの言葉は、仏教における人間関係の深い理解へと導いてくれるものです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（仲井 真貴記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/234/">8月の山門の言葉「俺とお前は意見が違うから互いに存在価値があるんだ」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>7月の山門の言葉「さわりおおきに徳おおし」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/224/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Jul 2025 04:54:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://saitoku-ji.jp/dx2yb3m/?p=224</guid>

					<description><![CDATA[<p>今年も猛暑の夏が巡って来た。猛暑の日には冷たいかき氷が最高である。昔はかき氷ブーム錯覚がある。家庭用かき氷器で作る氷は、白濁していて水道水である。市販の氷は透明感があり、それは天然氷で作られた純物である。 純物の多さに氷　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">今年も猛暑の夏が巡って来た。猛暑の日には冷たいかき氷が最高である。昔はかき氷ブーム錯覚がある。家庭用かき氷器で作る氷は、白濁していて水道水である。市販の氷は透明感があり、それは天然氷で作られた純物である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">純物の多さに氷ほる悩みがある。それに比べて私たちは氷に当てて溶けていく。だが氷を食べた時の頭の中にひやっと感じる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">阿弥陀仏の光明は、純物無く、はたらきは無くて、私たちに安心を与えてくださる。<br>白濁した氷を見て、透明感に包まれているかのように感じることがある。<br>阿弥陀仏は純物を持っておられると私は感じている。<br>透明である氷のように、私たちは自分の心に少しの曇りも無いと思っている。<br>透明でなければ、純物でなければと私たちは欠けている存在であると思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">『高僧和讃』には、私たち人間が生まれながらに持っている罪障・煩悩という氷に倣って、自分の思いに執着して、人の言葉に傷つき、他を受け入れない煩悩という苦しみがあることを教えてくださる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちは、透明でなければダメだ、透明が良いと思っているが、それは間違いである。<br>透明であることが大事ではなく、透明さの中に純物を感じることが大事だと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちの悩みの中には、阿弥陀仏の光が当てられて白濁した氷の中に阿弥陀仏の光があると私は思う。<br>阿弥陀仏は純物を持っておられる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「純物無くはたらきなきに不安や悩み」があるのではないかと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">阿弥陀仏の光は、純物無くはたらく存在を包み込んで、初めて私自身が明らかになるのである。<br>あのかき氷の姿を映し出すそれが弥陀のはたらきである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（蓮井 邦宗 記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/224/">7月の山門の言葉「さわりおおきに徳おおし」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>6月の山門の言葉「本当の贅沢とはなんだろうか？」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/216/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 22 Jun 2025 04:53:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「給料日、1ヶ月頑張った分の“ご褒美”に美味しいものを食べよう」。贅沢と聞いて“浮かぶ”のは、食べるもの・飲むものなどだろうと思う。辞書を引くと、「贅沢とは無駄で役に立たない」とある。贅沢とは、何故に“贅沢”と言えるのか　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">「給料日、1ヶ月頑張った分の“ご褒美”に美味しいものを食べよう」。<br>贅沢と聞いて“浮かぶ”のは、食べるもの・飲むものなどだろうと思う。<br>辞書を引くと、「贅沢とは無駄で役に立たない」とある。<br>贅沢とは、何故に“贅沢”と言えるのか。思い返してみる。<br>今、世の中は無意識に“合理化”が著しい世の中で、豊かさという味がない。<br>むしろ“贅沢を切り捨て、涙を失っている”のが現代の一面かもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">もしかしたら人生の潤いも、無駄で役に立たないものの中に<br>埋もれているのかもしれない。<br>「当たり前」という気に留めていなかったことに<br>実は“潤い”が宿っているのではなかろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちは自分が欲するものが手に入ることを贅沢と思っているが、<br>“当然”のように見逃してきたことで既に与えられていたことに気付くとき、<br>真の贅沢は違うのかと思うのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「おっとつあん、おっかあ」が真夏な身体生んでくれたことに感謝して。<br>飲み仲間の引越屋さんの「口癖」お陰様こそが贅沢なのだと思う。<br>贅沢は、人それぞれであって然るべきなのだと、格別に無駄と言われているはずであった。<br>比較が止められないが、既に与えられているお陰様の“贅沢”であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちは、お陰様の贅沢の中で生きるのだろうか。<br>本当の贅沢とは、どこにあるのだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（山﨑 智記）</p>



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		<title>5月の山門の言葉「『光の宗教』は数多い、『船の宗教』は唯我真宗ばかりである。」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/219/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 May 2025 04:47:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>四月を過ぎ五月になると、新学年や社会人としての新しい境いに少しずつ慣れ始めてきました。今年の四月、職場園へ入園した子どもの出来事を思い出しながら感じていたことがある。恥ずかしがり屋なわが子を見守っていたとき、私が見ていた　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">四月を過ぎ五月になると、新学年や社会人としての新しい境いに少しずつ慣れ始めてきました。今年の四月、職場園へ入園した子どもの出来事を思い出しながら感じていたことがある。恥ずかしがり屋なわが子を見守っていたとき、私が見ていたのは、時折私が幼稚園の頃、母が迎えに来てくれたときの頃のことである。母が車で迎えに来てくれた時、先生と母が話している場面を見て、心が安らぐ出来事であった。エピソードの時、私の中で幼稚園の繋がりが思い出された。「カギを締めていた時、先生に見られて焦ったこと」とか、「なごやかなエピソード」を思い出した。その余裕なくして雰囲気を感じていたのだろうと考えると、母の思いは親となった今、息子に同じことを思うのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今現在に至るまで感じてきたことは、色々と面倒を改めて考えさせる。自分自身が“どのようにして”多くの方々に支えられて生きてきたのか思い返すことがある。帰宅してから時間を過ごしてきた。中で多くの方々に今までの関係が築かれてきたのだと思う。自分の中で考え、また色々と多くの人たちに支えられて、私の生き方はこれまで支えてれたのだと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今回は、曽我量深師（真宗大谷派僧侶）の言葉を取り上げて、「光の宗教」は数あるが、真宗の教えを心にいただいた時、どこか“光”といえるような言葉からの呼びかけであっただろうか。親鸞聖人のうたうところ「光」に向かれたところから心得ることは、私たちも“光”を通して仏の願いに添うことができるのではないかと思うところである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏教にはさまざまな教えがあり、その思いを表される親鸞聖人の言葉は「海より深く、海より広い」という表現であった。ひと言の中で、迷いを放すためにはどうすればよいか、と思うところがある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏の物語に私たちをいかに“光”を当てるかが聞法の課題であると教えていただいた。そして“光”と共に“船”に乗せていただいた時、私たちが共に生きる現実を教えられたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">母が私に足りなかったことを今、伝えてくれたように思う。多様な繋がりによって支えられていることは、きれいな事実である。私たちも子どもを通して仏の物語に触れさせていただいた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（大橋 伊知郎記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/219/">5月の山門の言葉「『光の宗教』は数多い、『船の宗教』は唯我真宗ばかりである。」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>4月の山門の言葉「人は何よりも執着せんとするものが自己である」</title>
		<link>https://saitoku-ji.jp/news/213/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[saitokuji]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Apr 2025 04:44:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[山門の言葉]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>最近、おおねは周りが見えていないと言われた。無意識に「人を傷つけてしまうことができなかったこらえた」と言われたことがある。母は「あなたはよくならないこともあるかもしれない。私が慰め励ますために、母はひと言だけ言ってくれた　...続きを見る</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">最近、おおねは周りが見えていないと言われた。無意識に「人を傷つけてしまうことができなかったこらえた」と言われたことがある。母は「あなたはよくならないこともあるかもしれない。私が慰め励ますために、母はひと言だけ言ってくれた。母の言葉が分かるようで分からないこともあったが、その言葉は忘れることができなかった。「ひと言」だけで済んだ。わかるようで、わからないようで、無意識のうちに目に入ってきた言葉は自分を思い返すきっかけとなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">信門と気軽に優しく声をかけられたのに、どこか自分の思いが受け入れられていないように悩む中で、それでもどこか自分を思いがけないことができなかった。私の中に存在している“私の思いの中心”に怯えているのではなかったかと疑い、不安になった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私は、こういうとき、きっと“常に自分の理想像を求めてしまう”のだ。母は、良かれと思って言った自分の言葉が相手の言動から否定されたように思うと深く関わり、良関係を築いていきたいと思うのだが、それは幅広い交友関係における一言で否定されていきたい、理想の中心の思い込みなのだろうか。人間の心の思い込みにはなんと大きな問題があることか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私は、こういうとき“誰もが自分を良くしたい、良かれと思うとき、相手に原因を押し付けてしまう”。そこには、自分が抱いている心の中心がある。どこか「私の悩みがあるのだろう」と思うところがある。執着を向けられないところが、こういう大きな問題があるところだと毎田氏の言葉から知らされる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仏教では、それをどこまでも自分に執着しているのだと明らかにしていく。ふと思う。母の言葉が分かるようで分からないことがある。「思い通りにならない」思いである。思い返しをしていたら、気づかされる。「私は、思い通りにならない、常に執着しているのだろう」。その言葉、どこまでも突き詰めていくと“自分の理想像を求めての私の心を害する”言い表される。</p>



<p class="wp-block-paragraph">谷川氏の言葉を通して感じることは、私たちが本当に必要なのは答えではなく、問いである。親鸞聖人が人間尊重の問いの人生を歩まれた仏教の歴史である。時代を迎えて、私たちは悩みを抱えて生きるその中で、人の問いを学びたい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（大谷 隆記）</p><p>The post <a href="https://saitoku-ji.jp/news/213/">4月の山門の言葉「人は何よりも執着せんとするものが自己である」</a> first appeared on <a href="https://saitoku-ji.jp">西徳寺公式サイト</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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