

西徳寺は、寛永5年(1628年)、江戸・本郷の地に
佛光寺門徒の聞法道場として創建されました。
初代住職である釈善如を開基とし、
真宗佛光寺派の触頭寺院として、
江戸における教化の拠点を担ってきました。
山号は「光照山」、御本尊は阿弥陀如来。
時代の変遷を経ても、その信仰の灯を守り続けています。
火災や移転、
関東大震災を乗り越え、
昭和五年の
本堂再建以降も
地域とともに
歩み続けてきました。
江戸幕府は仏教を統制するため、寺請制度や寺檀関係を整備しました。西徳寺は1622年に江戸へ移転し、浄土宗増上寺・真宗本願寺・曹洞宗永平寺などと並び、触頭寺院に任命されました。
寺院は庶民に寺請証文を交付し、檀家管理や宗派ごとの統制を担い、幕府の宗教政策に深く関わる存在となりました。
江戸初期、西徳寺は竜泉寺村へ移り、この地は真言宗竜泉寺の創建を機に「竜泉寺村」と呼ばれるようになりました。1657年の明暦大火後、新吉原へ遊郭が移され町並みが形成され、やがて下谷竜泉寺町と改称されます。
西徳寺は移転後も再建を重ね、町奉行の支配のもと地域とともに発展していきました。
1923年9月1日の関東大震災で東京一帯は壊滅的被害を受け、浅草や下谷などで多くの犠牲者が出ました。倒壊や火災の惨状は記録や俳句にも残されています。
西徳寺も堂宇を失い、ご門徒の八割を失いましたが、当時の輪番である柏原法道氏を中心に西徳寺復興を進め、震災を乗り越えて再建を果たしました。
1930年(昭和5年)、西徳寺は檀信徒の強い願いと支援により本堂の再建に着手しました。震災や戦災を経て疲弊する中でも、近代的な鉄筋コンクリート造の堂宇が完成しました。
完成後は落慶法要が営まれ、多くの門信徒や関係者が参集。再建は檀信徒の結束と努力の結晶であり、戦後復興の象徴ともなりました。
「1944年に奥博仁師が西徳寺第4代輪番に就任しされました。1945年3月10日の東京大空襲では、市街の大半が焼失し、推定10万人を超える犠牲者が出ました。竜泉町も壊滅的被害を受け、西徳寺も庫裡を焼失します。
本堂にも焼夷弾が落ちましたが、残った地下部分に輪番等が避難することになりました。戦後は再建に取り組み、焼け野原からの復興を歩み始めます。
西徳寺のご本尊は戦災で焼失しましたが、現在のご本尊は1945年に佛光寺本廟よりお迎えしたものです。
1982年(昭和57年)、本堂内陣の修復に続き、西徳寺では門信徒の協力を得て会館建設の計画が進められました。事務や法要を担う機能を備えた施設として構想され、寄付や募財の尽力により実現。
1989年に第一会館が完成し、1991年には地階と延べ2,000㎡の規模を持つ第二会館も落成しました。地域の人々が集い、法要や行事を支える拠点として大きな役割を担っています。
江戸歌舞伎の名門・中村家と西徳寺は深い縁があります。初代中村吉右衛門は浅草で生まれ、兄が十代目中村勘三郎。娘は松本幸四郎家に嫁ぎ、九代目幸四郎を育てるなど歌舞伎界の大きな流れを築きました。
十七代中村勘三郎もまた数多くの舞台で活躍し、芸の系譜を受け継ぎました。西徳寺には十七代・十八代中村勘三郎丈の墓地があり、本堂前には初代中村吉右衛門丈より寄進された天水桶があります。
西徳寺では、地域とともに歩むお寺として、さまざまな活動を行っています。各種聞法会をはじめ、合唱団や「江戸伝統文化推進 燈虹塾」。
またバーベキュー大会や近隣幼稚園の花火大会、焼き芋大会等、境内地を利用しての催し物も開催し、多くの方にお寺の門をくぐっていただければと願っています。
西徳寺は、これまで多くの困難を乗り越えながら、
地域とともに歩んできました。
これからの西徳寺も、その歩みを大切にしつつ、
時代に合わせた “開かれたお寺” を目指していきます。
伝統を守るだけでなく、
聞法会や文化活動、子どもたちの行事など、
世代を超えて集える場づくりを
続けたいと考えています。
境内に足を運ぶきっかけが
法要であっても、行事であっても、
ふと心が落ち着く場所でありたい。
地域の方々や門徒さんと共に支え合いながら、
西徳寺の灯を未来へとつないでいきます。