11月の山門の言葉「庶類のために請せざる友と作る」
「嫌いな人いる?」
中学生時代、突然聞かれ「大嫌いな友人がいる」と答えた。すると「それは大事な人だなぁ(笑)」と言われた。非常に腹立たしい、しかし腑に落ちる思い出。それはどういう意味なのだろうか。随分、時を経て考えるようになり、なるほどという思いが少し湧いてきた。
私がみる「嫌な人」は自分自身の嫌なところを引き出してくるということだ。その人を前にすると憎悪が湧き出してくる。私がみるみる嫌な人になっていくのだ。これが私の本性なのだろう。
私たちが「友」と言う時は、気心が通じ、波長が合い、居心地が良い人を想像する。当然、それも大切な友である。しかし“善き友”ということは、そうではない人も含まれる。むしろ本当の私を引き出し、照らし出す存在こそ「不請の友」なのであろう。好きな人は好きなままに、嫌いな人は嫌いなままに、どちらも私を照らし出す大切な人。
この出逢いには時間を要する。「今思えば」であることが多い。週間、一年、もしかしたら十年の時を経ることもあるかもしれない。さらには、その方が亡くなってからということもあるだろう。その言葉が時と場所を超えて、機が熟し響いてくる時が成就する。
「〜ハラスメント」が増加し続ける昨今であるが、早々、軽々の場合もあるのではないだろうか。もしかしたら愛情ある指導、指摘、教育がその中に埋もれてゆくのではないだろうか。その判別が難しくなってきている瞬間的な個人感情が優位になっている現代に、警鐘を鳴らす言葉となって響いてくる。
(山﨑 哲 記)