山門の言葉

令和8年8月山門の言葉

そこに愛はあるんか?


某CM

 先日、親しかったご門徒が還浄された。個人的に親しくさせていただいているご門徒には、「あなたに何かあれば、全力で葬儀式をお勤めします。その代わり、私が先だったらお焼香ぐらいは来てください」とお伝えしている。わざわざ言うことではないが、これが私にとってのご門徒と僧侶の関係であると思っている。

 その言葉通り全力で葬儀を勤めたが、勤めながら感情に振り回されている自分に気が付く。そこで出てきたのは、“自己満足でしかないのではないか”という問いであった。還浄されたご門徒は、「私は人生を充分楽しんだから、いつお迎えが来てもいいの」と言っていた。感情的に葬儀を勤める私を見て、「何を勝手に悲しんでいるのよ」と笑われるかもしれない。そんなことを考えている時に、昔テレビのCMで聞いたこの言葉が思い出された。「そこに愛はあるんか?」。

 仏教では愛のことを(とん)(あい)(かつ)(あい)、愛欲というように、自己への執着から現れる感情という意味で用いる。確かに人間愛や、世界平和を願うといっても、その範囲は限定されるであろう。私の愛はどこまでいっても自分の都合に左右され、あまねく愛し、慈しむことはできない。つまり私から出るのは愛でなく煩悩しかないのだ。

 キリスト教ではアガペー、仏教では慈悲という普遍的な愛を説くが、いずれも人間の心、私の心から現れるものではない。そうなると愛とは私から出るものではなく、与えられるものではないだろうか。

 真実(まこと)の愛とは自己満足の域を出ない私を悲しみ、本当の人間に目覚めて欲しいと願う、仏心のはたらきであった。賜る、いただくところに愛がある。自己満足を他者に押しつけることしかできない私の愛が、恥であったと知らされる。それが愛なのだ。愛と同時に恥を教わるのが、人間という存在なのである。(仲井真裕 記)

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