山門の言葉

令和8年4月山門の言葉

経教はこれを喩うるに鏡のごとし
善導大師

今年七回忌を迎えた親戚との時間を振り返る。テレビでオリンピックや高校野球を一緒に見ていると、「これは日本人じゃない」、「こんなのは応援する気にもならん」と、ダブル(昔はハーフといった)の選手、日系選手にやけに口を尖らす人だった。私も言葉や顔立ちが違う選手がいるチームが勝利することに対してスポーツとして違和感があった。それは、能力の違いをズルいと思ったからである。

今日、戦争や差別の問題から、平等、平和といった言葉をテレビやSNSでよく目にする。また僧侶として、聞法の場で、その問題を取り上げた話を聞くこともある。それでも、私は生活の中で「はたして、あの人と私は同じであるといえるのか」と違和感を持つ瞬間が多々ある。

差別は簡単になくなるものではないし、仏法は差別をなくす教えではないと日々聞いているが、その教えを聞く中で、私自身が差別する心を捨てきれていないように思える。だからこそ、今自分が見て聞いて、考え、学んでいることが、本当に自分の中で問題にできているのかと問いかけられている気になった。

善導大師は、仏の教えは私の姿を映す鏡であると説かれる。他人のことはよく見えても自分が見えない我々には、生活の中に教えという鏡が必要であり、その鏡は普段は見えていない私の姿を照らし出すと表現している。私にとって鏡とは何なのか。

私は、平等、平和であることに日々違和感を持ちながらも、それが正しいことだと考え、私自身も正しくあろうとしている。しかし、そこには、私の見えていない、差別をなくしていけるという自分勝手な思いがあったのだと知らされる。私にとって、親戚という存在そのものが、「自分も差別していることを忘れていないか」と問いかけてくれている鏡ではないだろうか。         (大谷隆 記)

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