令和8年5月山門の言葉
私たちは日々の暮らしの中で、「好き嫌い」、「善悪」、「損得」の様に、自分の思いや考えを中心として、物事を選り分けていくような生き方をしている。簡単に言えば、自分にとって不都合な物事を切り捨てていくと言ってもいいだろう。しかしながら、そのような在り方は、果たして私にとって都合の良いものとなっているのだろうか。
私は旅先や偶々訪れた場所で綺麗な景色を目にした時、カメラやスマホで撮影することが好きだ。特に自然豊かな場所に惹かれることが多く、恐らくは私が生まれ育った滋賀県の、自然に囲まれた情景が脳裏に焼き付いているからだろう。
撮影に関しての知識や技術は素人レベルではあるが、十五年程の経験の中で気づかされたことがある。最初の頃は私が見た景色を、鮮明に明るく撮影することに重点を置いていたが、今となっては、それだけでは味気なく感じるようになった。写真の好みは人それぞれだと思うが、どうも私が惹かれた景色を収められているようには思えなかった。
実際の景色と私の求めた写真との大きな違いは、「暗さ」や「影」であった。例えば、山といっても樹々が生い茂り一つの山になっている。そこには太陽の光を浴び、それぞれに影が織りなすことで、立体感や奥行きを感じる。それは、明るさだけでは感じることの出来ない世界が、山や森のような自然、また、私たちが生活する身近な所にまで表れているからではないだろうか。
つまり、私の好む「明るさ」だけを求めた結果、味気ないと感ずるということは、「影」や「暗さ」が大きな役割を担っていたということになる。私の好むどちらか一方に偏っていくことで、実は現実・事実をそのままに見ることが出来ないのだと感じられてくる。
人生ということで言えば、苦い思い出や失敗が「影」や「暗さ」だとすると、それもまた今の私であり、「私の分別を超えて生かされていた」という事実を念仏に教えられる。その教えに出遇った時、自身を問い尋ねていくような歩みが始まるのではないだろうか。 (大橋伊知郎 記)