令和8年6月山門の言葉
久方ぶりの長男とのカラオケで、彼が歌った歌。強烈な歌詞に固まった。2010年の歌とのこと。「なんのために生きているのか?」という問い掛けをさらにえぐる、直球の表現。言い過ぎではないかと思う反面、どこかぐうの音もでないものをごまかせない自分がいた。
この歌詞は若者の青春の叫びとも聞こえるが、健康寿命を願う全社会に強烈に響いてくる。目標や目的、健康が有るうちはあまり気にならないのかもしれないが、ひとたびそれを失った途端に「生きている意味が分からない」となる。まさにこの歌詞のごとくではないだろうか。
この歌詞は改めて読むと、呼吸をして食物を食べて排泄するという、生命活動そのものであり否定できない内容である。しかしそれが強烈に響いてくる理由は、人間は猿とは違うからである。では何が違うのか…。
佛光寺派伝統の食前・食後のことばが浮かんできた。
食前のことば
「わたくしたちは、今この食膳に向かって、衆恩の恵みに深く感謝します。いただきます」
食後のことば
「わたくしたちは、この美わしい食を終わって、大いなる力を得ました。この力を報恩の行業にささげます。ごちそうさまでした」
生命から力を頂き、仏様より頂いたご恩に報いる生活をしていくということである。それは仏様の声、呼び掛けを聞いていくという一点に極まる。さらには仏の声を聞くということは、自分自身を聞いてゆくことに他ならない。多くの生命に支えられ、深い願いを掛けられていたからこそ、今日ここまで歩めた自分自身との出遇いである。
その出遇いは、自分中心で生きてきた私にとって大きな方向転換なのである。そしてこの行業は仮に健康を害しても、病床でも歩める道ではなかろうか。
そこが「猿」とは違うのである。否、動物こそ生命に従順に生きているのであろう。人間にのみ懴悔をともなう深い感謝の道が開かれる。(山崎 哲記)