令和8年10月山門の言葉
地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか忙しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう。その中で、被災していない自分がどうにか気持ちを汲むことができないかと思いながら過ごしていたが、家族や寺でお会いする方たちからは活気が見えず、文字通り心を失くしているように、私には感じられた。
そんな時、あるご門徒に「あんたも大変だろう」と言われた。「そんなわけがない」と、頭ではそう思っていたが、温かみのある「心」を感じ、気が楽になった。この時、私が感じた「心」とは何なのか。振り返ると、私が気持ちを汲もうとした行動は、被災した人に対して、被災していない私はこんな態度で接すれば、法事後に良い法話をしたいという、常に体裁を意識する下心であった。私が感じた温かみのある「心」とは、相手が私のことを受け入れてくれたという思いであった。しかし、それが応じてもらえなければ、「忙しそうだな」と家族やお寺に来る方に感じた息苦しさのように、相手に原因を押しつける自分勝手な心があるのだ。
親鸞聖人は、至心とは、阿弥陀仏のまことの心であり、それは嘘偽りがなく、疑いもない真実誠種の心であると表現している。また、それは、私たちが起こすのではなく、阿弥陀仏が起こす心であり、常に私たちに届いているものだと教えられる。阿弥陀仏の心は、私の思いや考えに応えるものではなく、それが、どこまでも自分の都合次第で変わっていく下心でしかないことを明らかにしてくるまことの心である。
ご門徒の言葉は、日々の暮らしの中で、様々な問題に一喜一憂し、自分中心でしか物事を見ることができない私の心をさらけ出した。(大谷 隆記)