山門の言葉

令和8年11月山門の言葉

近年、科学技術の進歩によって、私たちの生活は便利で快適になり、日々の暮らしに伴う様々な負担が軽減されてきた。特にスマートフォンの進化は著しく、一台あればインターネットに音楽鑑賞、買い物まで出来る優れものである。今となっては手放すことのできない物となっている。
 しかし、私たちの生活が便利で快適になる一方で、不安を感じることも増えてはいないだろうか。
 最近のニュースでは、AI(人工知能)を利用した企業へのサイバー攻撃なるものが頻発し、個人情報が漏洩しているとの報道を多く目にする。様々な企業が提供するサービスを利用するには、個人情報の登録は必須といっても過言ではないが、何の疑いもなく登録している私は、何を根拠に信じ切っていたのだろうかとも思わされる。
 いずれにしても、私たちが求めた便利で快適な暮らしの背後には、思ってもみないような不安を生み出す結果が待っていたが、どこか他人事で終わっているように感じる。
親鸞聖人が仰る「愚かさ」とは、能力や知識、経験が劣っているという意味ではなく、自身の在り方・生き方がはっきりしていない中で、様々な欲求に身を任せ、どこまでも自分自身に振り回されているような在り方である。
 そのような中で、私たちの願ったものが、まさか自分自身を苦しめることになるとは思いもよらず、他者へと責任を押し付けるような在り方になってはいないだろうか。しかしながら、その苦悩の元となるのは、紛れもないこの私であり、その無自覚さこそ、「愚か」と言い表されているように思う。
まさに、「内は愚にして外は賢なり」という言葉が、私たちの相(すがた)そのものをはっきりと目覚ましめ、無自覚に苦悩を繰り返す私たちを、仏さんの願いに喚び帰してくださる言葉である。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり (愚禿親鸞)

 地震後、熊本の実家に帰ると、息苦しかった。被害があった自宅の片付け、寺の片付け、そして始まるお盆参りと、次から次へと事が重なる中で、どこか忙(せわ)しなく暮らす家族やお寺にお参りされる方たちの様子からそう思ったのだろう。その中で、被災していない自分がどうにか気持ちを汲むことができないかと思いながら過ごしていたが、家族や寺でお会いする方たちからは活気が見えず、文字通り心を失くしているように、私には感じられた。

 そんな時、あるご門徒に「あんたも大変だろう」と言われた。「そんなわけがない」と、頭ではそう思っていたが、温かみのある「心」を感じ、気が楽になった。この時、私が感じた「心」とは何なのか。振り返ると、私が気持ちを汲もうとした行動は、被災した人に対して、被災していない私はこんな態度で接すれば、法事後に良い法話をしたいという、常に体裁を意識する下心であった。私が感じた温かみのある「心」とは、相手が私のことを受け入れてくれたという思いであった。しかし、それが応じてもらえなければ、「忙しそうだな」と家族やお寺に来る方に感じた息苦しさのように、相手に原因を押しつける自分勝手な心があるのだ。

 親鸞聖人は、至心とは、阿弥陀仏のまことの心であり、それは嘘偽りがなく、疑いもない真実誠種の心であると表現している。また、それは、私たちが起こすのではなく、阿弥陀仏が起こす心であり、常に私たちに届いているものだと教えられる。阿弥陀仏の心は、私の思いや考えに応えるものではなく、それが、どこまでも自分の都合次第で変わっていく下心でしかないことを明らかにしてくるまことの心である。

 ご門徒の言葉は、日々の暮らしの中で、様々な問題に一喜一憂し、自分中心でしか物事を見ることができない私の心をさらけ出した。(大谷 隆記)

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