1月の山門の言葉「地獄は一定すみかぞかし」
「悪業」と言うと先ずは「罰」を想起されるだろう。しかし「悪」としてしまいがちな行動や思いは、テレビで取り上げられた事件などに限られているわけではない。生前の作家が“交通妨害をしている自転車の人に「死ね」と怒鳴ってしまう”という。前方を犯した者が疾地獄•隔住地獄に堕ちるのである。地獄に堕ちる所が池地獄、焦熱地獄、阿鼻地獄…と細かい罪を犯したものは地獄に落ちるべしのごとく言われる。
SNSを見れば、誰かが誰かを批判し傷つけ、痛みを与え、無数の人間が血を流しながら争いが絶えないことを深く思う。時に人が奪われ、自分が他人を殺めるということも考えられる。そんなとき私にできることは誰かを批判することではなく、自分自身の生き方を見つめ、他人のことを考えることである。
他人を傷つけ、人を責めることは誰にもある。あるいは「私は地獄に落ちるしかない」という生きざまを持ち続けることになる。この世の中で地獄なのである。例えば、私たちの人生では、「この世の中で地獄なのである」。人の世というものがすべて地獄なのである。
念仏は地獄から抜け出す教えではない。地獄無間という、私の生涯であることを気づかせてくれる場が聞法の場として聞き拓いていかねばならぬ課題である。批判すべきは他人ではなく、争いの中に出遇ったときこそ「一定教え決断せしめる」教えである。そこに出遇い、時の問題を抱え、共に地獄を作り出している課題であることを知らされるのである。
(蓮井 邦宗記)