2月の山門の言葉「我等は生死以外に霊存するものなり」
毎日ウイスキーを好んで飲む。学生時代にピルクール先生に連れられ、初めて飲んだときは、ウイスキーは時々飲んでいて“この味”を感じたときにウイスキーは熟成が完了する。ピートの香りが鼻に触れてくる。そんな理由が確かにある。酒に酔い、酒が苦手になる。過ぎた飲み過ぎが体を害することになる。年齢を重ねるに連れて、酒の味は変わってくる。十年が経つと若者からは害と呼ばれ、世間からの価値が下がってしまうのだろうか。
今月の言葉は真宗大谷派の僧侶で、大谷大学の初代学長である清沢満之師の言葉である。ウイスキーも清沢先生の聞法会・法話をよく拝聴していた文である。文の数を重ねた今でも残っている言葉である。
私が私個人の生死を超えたものがある。私が個人として存することが、生死ではないのだろうか。自分が生まれてきたのちが死ぬまでの間の一人生であり、その後の歩みである。“私たちの人生”を数で超えたものが、私たちの生死以外のものがあるという説かれた真宗の母胎の動機は「出離生死仏教」の根本問題である。しかるべきが私たちの存在には、以前私を包み出した“無”は、無のところで生じる。生死以外のいのちが霊存するのだ。
ウイスキーと同じく、私たちはいのちの味をいただく。酔いながら見失っていく私の背景は根源教わっている。時という制約の中にこそ、私の背景が知らされるのである。
(仲井 真法記)