4月の山門の言葉「人は何よりも執着せんとするものが自己である」
最近、おおねは周りが見えていないと言われた。無意識に「人を傷つけてしまうことができなかったこらえた」と言われたことがある。母は「あなたはよくならないこともあるかもしれない。私が慰め励ますために、母はひと言だけ言ってくれた。母の言葉が分かるようで分からないこともあったが、その言葉は忘れることができなかった。「ひと言」だけで済んだ。わかるようで、わからないようで、無意識のうちに目に入ってきた言葉は自分を思い返すきっかけとなった。
信門と気軽に優しく声をかけられたのに、どこか自分の思いが受け入れられていないように悩む中で、それでもどこか自分を思いがけないことができなかった。私の中に存在している“私の思いの中心”に怯えているのではなかったかと疑い、不安になった。
私は、こういうとき、きっと“常に自分の理想像を求めてしまう”のだ。母は、良かれと思って言った自分の言葉が相手の言動から否定されたように思うと深く関わり、良関係を築いていきたいと思うのだが、それは幅広い交友関係における一言で否定されていきたい、理想の中心の思い込みなのだろうか。人間の心の思い込みにはなんと大きな問題があることか。
私は、こういうとき“誰もが自分を良くしたい、良かれと思うとき、相手に原因を押し付けてしまう”。そこには、自分が抱いている心の中心がある。どこか「私の悩みがあるのだろう」と思うところがある。執着を向けられないところが、こういう大きな問題があるところだと毎田氏の言葉から知らされる。
仏教では、それをどこまでも自分に執着しているのだと明らかにしていく。ふと思う。母の言葉が分かるようで分からないことがある。「思い通りにならない」思いである。思い返しをしていたら、気づかされる。「私は、思い通りにならない、常に執着しているのだろう」。その言葉、どこまでも突き詰めていくと“自分の理想像を求めての私の心を害する”言い表される。
谷川氏の言葉を通して感じることは、私たちが本当に必要なのは答えではなく、問いである。親鸞聖人が人間尊重の問いの人生を歩まれた仏教の歴史である。時代を迎えて、私たちは悩みを抱えて生きるその中で、人の問いを学びたい。
(大谷 隆記)