5月の山門の言葉「『光の宗教』は数多い、『船の宗教』は唯我真宗ばかりである。」
四月を過ぎ五月になると、新学年や社会人としての新しい境いに少しずつ慣れ始めてきました。今年の四月、職場園へ入園した子どもの出来事を思い出しながら感じていたことがある。恥ずかしがり屋なわが子を見守っていたとき、私が見ていたのは、時折私が幼稚園の頃、母が迎えに来てくれたときの頃のことである。母が車で迎えに来てくれた時、先生と母が話している場面を見て、心が安らぐ出来事であった。エピソードの時、私の中で幼稚園の繋がりが思い出された。「カギを締めていた時、先生に見られて焦ったこと」とか、「なごやかなエピソード」を思い出した。その余裕なくして雰囲気を感じていたのだろうと考えると、母の思いは親となった今、息子に同じことを思うのだろう。
今現在に至るまで感じてきたことは、色々と面倒を改めて考えさせる。自分自身が“どのようにして”多くの方々に支えられて生きてきたのか思い返すことがある。帰宅してから時間を過ごしてきた。中で多くの方々に今までの関係が築かれてきたのだと思う。自分の中で考え、また色々と多くの人たちに支えられて、私の生き方はこれまで支えてれたのだと思う。
今回は、曽我量深師(真宗大谷派僧侶)の言葉を取り上げて、「光の宗教」は数あるが、真宗の教えを心にいただいた時、どこか“光”といえるような言葉からの呼びかけであっただろうか。親鸞聖人のうたうところ「光」に向かれたところから心得ることは、私たちも“光”を通して仏の願いに添うことができるのではないかと思うところである。
仏教にはさまざまな教えがあり、その思いを表される親鸞聖人の言葉は「海より深く、海より広い」という表現であった。ひと言の中で、迷いを放すためにはどうすればよいか、と思うところがある。
仏の物語に私たちをいかに“光”を当てるかが聞法の課題であると教えていただいた。そして“光”と共に“船”に乗せていただいた時、私たちが共に生きる現実を教えられたのである。
母が私に足りなかったことを今、伝えてくれたように思う。多様な繋がりによって支えられていることは、きれいな事実である。私たちも子どもを通して仏の物語に触れさせていただいた。
(大橋 伊知郎記)